外国為替に影響する要人発言

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中川財務金融相

「為替の急激な振れは経済に悪影響」

社会保障(しゃかいほしょう、social security)とは、本来は個人的リスクである、病気・けが・出産・障害・死亡・加齢・失業などの生活上の問題について貧困を予防し、貧困者を救い、生活を安定させるために国家または社会が所得移転によって所得を保障し、医療や介護などの社会サービスを給付すること、またはその制度を指す。 社会保障の歴史は、経済社会の動きと密接に関係しており、社会保障の仕組みは、各国が長い歴史の中で、相互に影響を与えながら積み重ねてきたものである。19世紀から20世紀にかけては、各国で失業問題が最大の課題であり、その中から社会保障が進展してきた。また、本来、福祉とは正反対の戦争が契機となって社会保障の基礎がスタートしたといえる。20世紀後半に入ってからは、各国において経済の低成長・高齢社会が社会保障を考えていく上での課題である。 救貧法 大航海時代は、世界貿易を発展させ、商業の一大変革をもたらした。毛織物工場を刺激し、イギリスの農業地帯はいっせいに羊を飼う牧場へ変わっていった。農地から追い出された農民たちは、都市へ流れ込み無産者(貧民)となった。1601年、イギリスではこれまでの救貧施策をまとめた、家族による支援が得られない貧困者を救済する法を制定した。この救貧法(Poor Law)は現在の公的扶助にいたる原形となるが、当時社会保障という言葉は生まれていなかった。1834年に救貧法の大改正が行われ、貧民処遇の一元化や中央集権化が図られた。新救貧法では、貧困者は救貧院に収容されて、そこで働かされることになった。救貧の水準について「自立して働いている人のうちのもっとも貧しい人の生活水準以下で救済する」という、劣等処遇の原則や院外救済の禁止、市民権の剥奪などが確立された。 社会保険の誕生 産業革命により資本主義が定着していくと、資本家から失業は個人の問題であり国による貧民救済は有害との主張がなされた。一方、工場労働者たちも防貧のために、自分たちの賃金の一部を出し合って助け合う共済組合を作っていった。共済組合は、イギリスでは友愛組合、ドイツでは疾病金庫などの名前で親しまれ、主に疾病と失業による雇用の中断の際の経済的保障を提供していた。これらは、共済内メンバーの所得保障等に寄与したが、一方で高齢者(退職した労働者)の貧困問題には対処できなかった。また、小規模の助け合いの仕組みでは給付水準も限られ不安定であった。 1883年、ドイツで初めて疾病保険が制定された。1884年には労災保険、1889年には年金保険が制定された。このように、社会保険制度を創設しつつ社会主義運動を弾圧する鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの政策は「飴とムチ」の政策と呼ばれる。疾病保険は、既存の共済組合を利用したもので、経費の公費負担はなかったが、労災保険の費用は全額事業主負担だった。年金保険は30年以上保険料を払い込んだ70歳以上の高齢者に給付を行うものであり、公費負担が3分の1だった。ドイツで始まった社会保険の仕組みは、その後世界各国で導入されるようになる。 ベヴァリッジ報告 1929年にウォール街での株の大暴落を契機として始まった世界大恐慌により、世界各国には大量の失業者があふれ、社会不安が増大した。アメリカでは、フランクリン・ルーズベルト大統領がニューディール政策の一環として1935年に連邦社会保障法(Social Security Act)を制定した。社会保障という言葉はこのとき初めて使われたが、この連邦社会保障法は、老齢年金、失業保険、障害者扶助、母子衛生及び児童福祉事業等をその内容としており、必ずしも、今日使われているような社会保障を意味するものではなかった。 社会保障という言葉が、国際的に本格的に使われるようになったのは、ベヴァリッジ報告以後である。イギリスでは、戦時中の1942年にウィリアム・ベヴァリッジが「社会保険と関連サービス」と題したベヴァリッジ報告を提言し、その後、多くの国の社会保障の発展に大きく影響を与えることになる。この報告では、社会保険制度を中心とし、公的扶助・関連諸サービスを総合し、「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにした社会保障計画を提唱した。戦後の社会保障の理想的体系を示したものであり、社会保険制度については均一拠出と均一給付を採用していた。 社会保障の拡充 戦後の高度経済成長期には、多くの先進国で社会保障がエステサロン された。その要因としては、 ケインズ主義の受容によって消極国家から積極国家へと転換したことにより、財政政策を通じた市場への介入と同時に社会保障政策を通じた市民生活への介入も正統性を得た。 社会保障(たとえば公的扶助や失業給付)の対象となる受給者が膨大であれば財政を大いに圧迫してしまうため、ケインズ主義政策による美容整形 の実現は社会保障の質的向上の必要条件である。 大量生産が実現して資本主義がフォーディズム段階に至ると、労働者に単純労働を強いる代償として社会保障の拡充が容認されうる。 社会保障を通じた所得再分配は大量生産の受け皿である国内需要の拡大に寄与する。 特に開放経済の諸国においては、賃上げ抑制の見返りとして、政府が社会保障を拡充する。 などが挙げられる。 社会保障の見直し しかし、1970年代から社会保障の抑制の必要性が喧伝されるようになる。その要因としては、 オイルショックを契機とした低成長化によって税収が減少。 経済のグローバル化による資本移動の自由化が底辺への競争を惹起。 脱工業化によって労働者の均質性が高い製造業からサービス産業へと移行し、労働組合が弱体化。 などが挙げられる。具体的には、イギリスのマーガレット・サッチャー首相(1979年)やアメリカのロナルド・レーガン大統領(1981年)など、新自由主義を志向する政権によって社会保障の削減が試みられた。 一方で、先進諸国における人口の急激な高齢化によって社会保障の政策需要はむしろ拡大している。しかし、高齢社会の到来は、「社会保障の受給者の限定」という従来の前提条件を掘り崩すものであり、少子化対策を含め、各国が社会保障の改革に取り組んでいる。 社会保障の発展や変容の要因に関する研究については福祉国家論も参照。 日本の社会保障は、第二次世界大戦前に視力回復 のビスマルクの社会政策の制度にならい作られた。日本で最初の社会保険は、1927年に施行された健康保険法である。また、農村に対する救済策として1938年に国民健康保険法が制定された。1941年には、労働者を対象とした労働者年金保険法が創設され、その後、対象を職員や女子にも拡大する形で1944年には、厚生年金保険法が制定された。 第二次世界大戦後に緊急対策として求められたのは、引揚者や失業者などを中心とした生活困窮者に対する生活援護施策と劣悪な食糧事情や衛生環境に対応した栄養改善とコレラ等の伝染病予防だった。1946年に生活保護法が制定され、不完全ながらも国家責任の原則、無差別平等の原則、最低生活保障の原則という3原則に基づく公的扶助制度が確立された。 1946年に制定された日本国憲法の理念に基づき、各分野における施策展開の基礎となるレーシック 法の制定や体制整備が進められ、1947年に児童福祉法、1949年に身体障害者福祉法、1950年に生活保護法の改正、1951年に社会福祉事業法が制定された。 日本国憲法第25条においては社会保障が以下のように記され、生存権の根拠とされている。 一、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 二、国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 ここでは、社会保障の内容についての記述はなく、1950年に社会保障制度審議会(総理大臣の諮問機関)が発表した「社会保障制度に関する勧告」中で、次のように述べている。 『いわゆる社会保障制度とは、疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、多子その他困窮の原因に対し、保険的方法または直接の公の負担において経済的保障の途を講じ、生活困窮に陥った者に対しては国家扶助によって最低限度の生活を保障するとともに、公衆衛生および社会福祉の向上を図り、もって、すべての国民が文化的社会の成員たるに値する生活を営むことができるようにすることをいう。』